◆地域をよくするということ・・・
普通ですと、まず施設ありきということになるんですけれど、その施設を作るお金が当時ありませんでした。 そこで皆で協力し、湯布院というブランドと市場をつくり、地域でお客様をお迎えしようということになったのです。 だから一緒に手を繋いでやっていこうということがはじまったのです。

◆情報発信の大切さ
昭和41年に国民体育大会が大分県で開催され、湯布院でも重量上げなどの種目が行われ、世界記録が生まれました。 
湯布院発で世界へその情報が発信されていくわけです。 普通ですと東京経由ですが、その時に情報というものは質がよければ一地方であっても、それは世界に支持されるものだと感じました。

またマスコミの皆さんとの情報交流によって、さらに質の高い情報になり発信されていくのです。 そうやって人と人とが繋がることにより、情報と情報も結びついてゆくのだと言う事を学びました。

◆自然保護運動
その後は「猪の瀬戸のゴルフ場問題」が起こりました。 これは別府と湯布院間の湿原地がゴルフ場になるという計画でした。 
その当時は、施設をつくるためには自然破壊は当り前の時代でした。 つまり施設ありきだったわけです。 そこでゴルフ場という施設をつくり、お客さんを呼ぼうという流れのなかで、湯布院が「待った!」の声をかけたのです。


それも観光協会の中からそんな声があがりました。 観光協会という組織はどちらかと いうと施設オンリーのイメージでしたから、自然や環境を守ろうという逆のことをやったわけです。

世間の人たちから見ると、すごく驚きであると共に、全国に向かって 、自然保護運動と湯布院というイメージを鮮明に打ち出していくことができました。


◆昭和46年・9カ国50日間の欧州旅行
湯布院にお越しくださるお客様から「ヨーロッパの温泉保養地を見てきたらどうか?」という話がでまして、ドイツを中心にヨーロッパ9カ国50日間の旅をしました。

そして、その旅のなかで出会った人たちに「静けさと、空間と、緑が大切だ・・・」 と言われて、はじめてそういったことに気付きました。


そういう3つの基本的なもの を形付けていくのに100年かかったとも話していました。

それが私たちの原点になり「湯布院100年のまちづくり」という言葉や思想が生まれたのです。


どういう町をつくるか。 そのためには、夢を皆で追いかけていけるようなものをつくっていかなければと思いました。 そして実現に向かって、走りはじめるわけですが、 自分の代でできなければ子どもの代でつくればいい。

それでも無理ならば孫の代でつくればいいと考えるようになったのです。

ヨーロッパの皆さんがおっしゃるようにちょうど100年の月日が必要だということです。


たまたま、亀の井別荘の中谷健太郎さんがすばらしいアイデアや企画力の持ち主で、それが湯布院の一つのブランドになりました。

また私はマスコミや行政をつないでいく調整役だったのかもしれません。

 
そして、山のホテル夢想園の志手康二さん(故人)は親分肌(包容力)で、若い人の心を捉え、まとめるのが非常に上手でした。

この3つのキー ワードがそれぞれ3人の特徴としてうまく絡み合ったんでしょうね。 そしてお互いが役割分担をし、それぞれの分野で力を発揮していったということです。